バート・バスキン

バートン・バスキン
Burton Baskin
生誕 Burton Leo Baskin
(1913-12-17) 1913年12月17日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州ストリーター(英語版)
死没 1967年12月24日(1967-12-24)(54歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス
出身校 イリノイ大学
職業 実業家
活動期間 1935−1967
著名な実績 バスキン・ロビンス共同創業者
配偶者
Shirley Robbins (m. 1942)
子供 2人(リチャード(英語版)ほか)
親戚 アーヴ・ロビンス(義弟)
ジョン・ロビンス(甥)
リチャード・スキップ・ブロンソン(英語版)(娘婿)
テンプレートを表示

バートン・“バート”・バスキン(Burton "Burt" Baskin、1913年12月17日 - 1967年12月24日)は、アメリカ合衆国の実業家である。義弟のアーヴ・ロビンスと共にアイスクリーム・チェーンのバスキン・ロビンスを創業した[1]

若年期

バスキンは1913年12月12日にイリノイ州ストリーター(英語版)で生まれた。父のハロルド・バスキンはロシアスモレンスク州出身、母のアイダ・スーリーはポーランドウォムジャ出身で、いずれもユダヤ人である。それぞれ1890年代に渡米した[2]。3人の兄と1人の姉がおり、バスキンは末っ子だった。父はストリーターで衣料品店を35年間経営し、1938年に引退した[3][4]

バスキンは1931年にスターラー・タウンシップ高校を卒業し、1935年にイリノイ大学を卒業した[5]

キャリア

大学卒業後は父の衣料品店を手伝った後、シカゴのホテル・パーマー・ハウス(英語版)内に自分の紳士服店を構えた。1942年にシャーリー・ロビンスと結婚した。その弟がアーヴ・ロビンスだった。第二次世界大戦中はアメリカ海軍に入隊した。第1哨戒航空団(後の第1艦隊航空団)に所属し、1942年から1943年にかけて、南太平洋のアメリカ軍の拠点エスピリトゥサント島(現・バヌアツ領)に配属されていた。

バスキンは1946年に除隊した。当時、義弟のアーヴ・ロビンスがカリフォルニア州グレンデールでアイスクリームショップ「スノーバード」(Snowbird)を開いていた。ロビンスは、服を売るよりもアイスクリームを売る方が楽しいとバスキンを説得し、バスキンはカリフォルニア州パサデナでアイスクリームショップ「バートンズ」(Burton's)を開店した[6]

1948年、バートンズの3店舗とスノーバードの5店舗を1つの会社に統合した。そして、31番目のフレーバーである「チョコレート・ミント」が考案された[6]。その後も新しい店舗を開店させたが、店を増やしすぎたために、個々の店舗を見る時間がどんどん減っているということに2人は気付いた。1985年の『ロサンゼルス・タイムズ』のインタビューで、ロビンスは次のように語っている。「そこで私達は、各店舖の店長に店を売ることを思いついたのです。フランチャイズという言葉が流行する以前から、私達はフランチャイズビジネスに参入していたのです。私達は次の店、また次の店、そのまた次の店と開店させていきました[6]」2人は新しい店舗のオーナーと「フランチャイズ契約」を結び、食品業界では史上初めて店舗をフランチャイズ化した。このアイデアは他の小売業にも広まり、「フランチャイズの時代」が到来した。

1949年、40以上の店舗を持つようになったバスキンとロビンスは、カリフォルニア州バーバンクの農場を購入し、アイスクリームの製造や新しいフレーバーの開発を完全にコントロールできるようになった[7]

1953年、バートンズとスノーバードという2つのブランドを「バスキン・ロビンス」という1つのブランドに統合した。どちらの名前を先にするかは、コイントスで決定した。同年、「31フレーバー」(31の味)というコンセプトが導入された[6]。1974年に進出した日本では、31を前面に出した「サーティワンアイスクリーム」という店名となっている。

1949年末に43店舗、1960年までに100店舗まで拡大した。1967年にユナイテッド・フルーツに推定1200万ドルで売却したが、そのときには約500店舗を展開していた。ロビンスは売却後も11年間会社に留まり、1978年に引退した[6]。その25年後、バスキン・ロビンスは、世界に5500店舗を展開する世界最大のアイスクリーム・チェーン店となっていた。

私生活

1941年にバスキンがシャーリー・ロビンスと交際を始めたときに、シャーリーの弟のアーヴ・ロビンスと出合った。シャーリーとは1942年にワシントン州タコマで結婚した。シャーリーとの間には、エディとリチャード(英語版)の2人の子供がいた。

バスキンは1967年12月24日にロサンゼルス近郊のスタジオシティ(英語版)の自宅で心臓発作により死去した[5]。遺体はロサンゼルスのホーム・オブ・ピース墓地(英語版)に埋葬された。バスキンの死後、妻のシャーリーは実業家のイサドール・ファミリアン(英語版)と再婚した。

脚注

  1. ^ “Our History -” (英語). 2024年4月28日閲覧。
  2. ^ 1920年アメリカ合衆国国勢調査(英語版)
  3. ^ “Former Local Merchant Dies – Harry Baskin, 75, Succumbs in Arizona; Funeral Rites Monday”. The Times (Streator, Illinois). (February 20, 1953). https://www.newspapers.com/image/542902555/?article=829ffc90-c517-49a0-a6cf-5a429a4a990c&focus=0.6145086,0.2455096,0.7314882,0.47367173&xid=3355 
  4. ^ “Baskin, Burt (1913–1967), cofounder of the Baskin-Robbins ice cream parlor chain”. 2024年9月1日閲覧。
  5. ^ a b “Former Local Man Dies In California”, Streator Times-Press, (1967-12-26) 
  6. ^ a b c d e Nelson, Valerie J. (May 7, 2008), “Irvine Robbins, 90; co-founder of the Baskin- Robbins ice cream empire”, Los Angeles Times, https://www.latimes.com/local/obituaries/la-me-robbins7-2008may07-story.html 
  7. ^ “Baskin-Robbins: Our History”. 2008年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年5月9日閲覧。

外部リンク

  • Baskin-Robbins website
  • "バート・バスキン". Find a Grave. 2009年5月15日閲覧