李裕ヒョン
本来の表記は「李裕灐」です。この記事に付けられたページ名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
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名前 | ||||||
カタカナ | イ・ユヒョン | |||||
ラテン文字 | LEE Yoo-Hyung | |||||
ハングル | 이유형 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 韓国 | |||||
生年月日 | 1911年1月21日 日本統治下朝鮮、信川 | |||||
没年月日 | (2003-01-29) 2003年1月29日(92歳没) 韓国、ソウル | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
全京城蹴球団(英語版) | ||||||
代表歴 | ||||||
1940 | 日本 | 1 | (0) | |||
1948 | 韓国 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
李 裕灐(朝鮮語: 이유형、イ・ユヒョン、1911年1月21日 - 2003年1月29日[1])は韓国のサッカー選手。サッカー指導者。
来歴
黄海道信川郡(現:黄海南道信川郡)で生まれ、崇実高等普通学校(現在の崇実高等学校。平壌にあった。)、延禧専門学校(現在の延世大学校)を経て、1942年毎日新報に記者として入社。ソウル新聞、京郷新聞の体育部長を歴任した。
選手としては全京城蹴球団(英語版)で選手生活を送り、1939年9月に日本代表として初めて出場した[2]。
1948年ロンドンオリンピックサッカー韓国代表選手として出場。1952年ヘルシンキオリンピックは役員として参加。1954 FIFAワールドカップ・予選監督。1956年アジアカップ韓国代表監督として優勝。大韓サッカー協会第16代理事長[1]。
代表歴
- 国際Aマッチ 1試合 0得点(1940)
日本代表 | 国際Aマッチ | |
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年 | 出場 | 得点 |
1940 | 1 | 0 |
通算 | 1 | 0 |
出場
No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1940年06月16日 | 兵庫県 | 甲子園南運動場 | フィリピン | ○1-0 | 竹腰重丸 | 奉祝東亜競技大会 |
脚注
外部リンク
- 李裕瑩 - Olympedia (英語)
- 李裕瑩 - National-Football-Teams.com (英語)
- 李裕瑩 - FIFA主催大会成績 (英語)
- 李 裕ネ瑩 - サッカー日本代表データベース
サッカー大韓民国代表歴代監督 | |
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