紀元前199年
世紀 | 前3世紀 - 前2世紀 - 前1世紀 |
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十年紀 | 前210年代 前200年代 前190年代 前180年代 前170年代 |
年 | 前202年 前201年 前200年 紀元前199年 前198年 前197年 前196年 |
紀元前199年(きげんぜん199ねん)は、ローマ暦の年である。ローマ建国紀元555年、ルキウス・コルネリウス・レントゥルスとプブリウス・ウィッリウス・タップルスの年[1]。
他の紀年法
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凡例
- 分類にある「日本」「中国」「中国周辺」「朝鮮」「ベトナム」は地域概念であり、特定の国家をさすものではなく、またその外延は便宜的に定めたものである。特に「*」の付された王朝の分類は仮配置であり、現在も「ガイドライン」のノートで対応を検討中である。
- 「中国周辺」は、「広義の北アジア、中央アジア、及びこれに隣接する中国の一部地域(ほぼ中央ユーラシアに相当)」を指す。
- 一段右寄せの箇条に掲げた元号は、その上段の元号を建てた王朝に対抗する私年号である。
- 仏滅紀元及びユダヤ暦は、現在のところ元年と対応する西暦年から逆算した数を表示しており、旧暦等の暦日の記述とともに確実な出典を確認していないので利用には注意されたい。
- 皇紀は日本で1873年の太陽暦採用と同時に施行された。
- 檀紀は大韓民国で1948年から1961年まで公式に使用された。
- 主体暦は朝鮮民主主義人民共和国で1997年から公式に使用されている。
- 仏滅紀元は紀元前543年を元年とするタイ仏暦を基準にしている。スリランカなどでは紀元前544年を元年としているので1を加算されたい。
できごと
ローマ
- コンスル(執政官)のタップルスが第二次マケドニア戦争を担当した[1]。
- プラエトル(法務官)のグナエウス・バエビウス・タンピルスがガリア人のインスブレス族に敗北した[2]。
- スキピオ・アフリカヌスがプブリウス・アエリウス・パエトゥスと共にケンソル(監察官)に選出され、プリンケプス・セナトゥス(元老院第一人者)に指名された[2]。
- 護民官プブリウス・ポルキウス・ラエカが、ポルキウス法を成立させたと考えられている[2]。プロウォカティオ(上訴)に関する法で、紀元前195年とする説もある[3]。
- ナルニアに移住者が追加された[4]。
誕生
「Category:紀元前199年生」も参照
死去
「Category:紀元前199年没」も参照
脚注
注釈
出典
[脚注の使い方]
参考文献
- Giovanni Rotondi (1912). Leges publicae populi romani. Società Editrice Libraria
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
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